戦争について考える

戦争について

2025年の竹内浩三生誕祭では「戦争と浩三」がテーマとなった。戦争詩人として知られる浩三が、いかに時代の空気を肌で感じ、そこに巻き込まれていったのか。来場者の多くは、彼の言葉に深く共感を覚えていた。背景には、ウクライナ戦争や台湾有事の懸念など、戦争をめぐる議論が以前にも増して身近になっている現実がある。しかし、その議論の多くがどこか現実味に欠けているのではないか、という感覚が拭えなかった。

今回、浩三の「筑波日記」や詩だけでなく、同時代の若者たちの日記を読み直してみた。そこには、学生時代の甘さ、社会に出てからの挫折や不条理への戸惑いが綴られており、現代の若者と通底する感情があった。ただ決定的に違っていたのは、「戦争」が日常の中に存在し、男性なら誰もが兵隊として徴兵されるという現実である。国家によって他者を殺す訓練を受け、命を懸けることが当然の義務として課せられていた。我々はそれを想像することはできても、同じ実感を持つことはできない。それは徴兵制という制度の有無が生む、認識の断絶なのだ。

徴兵制のある国ない国

世界を見渡すと、徴兵制を採用している国は約60カ国ある。韓国やスウェーデン、ロシアなど、日本と地理的にも政治的にも近い国々も含まれている。一方で、徴兵制を廃止し、志願制に移行している国も多い。たとえばアメリカ、イギリス、日本などは職業軍人によって軍を維持しており、その背景には戦争のハイテク化や専門化がある。

かつて19世紀までは、戦争は傭兵などのプロによって遂行されたが、20世紀には国家総動員体制のもと、国民全体が戦争に動員された。徴兵制はその象徴でもあり、ナショナリズムの高揚装置として機能した。しかし、冷戦終結以降、戦争の性質は非対称戦争や経済制裁、サイバー攻撃など多様化し、徴兵制の意味も次第に変化してきている。

今、考えなければならないこと

戦争について考えるとき、我々はしばしば過去の大戦に立ち返る。明治以降の日清・日露戦争や太平洋戦争を参照するのは重要であるし、日本という国の形成において無視できない時代でもある。しかし、戦争のあり方はすでに大きく変貌しており、過去の文脈をそのまま今日にあてはめるのは危うい。
戦争について学ぶために明治以降の日清戦争、日露戦争、太平洋戦争のみを参照することは、戦争の変化を覆い隠す。もちろん意味が無いことない。特に日本の国のあり方はその時代と連続している部分が大きいのだから。しかし、今日の戦争のあり方を考慮せずに過去の議論をそのまま踏襲するのは愚かだ。では何から始めるべきか。それを考えていきたい。

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